誰そ彼

校舎を出て、空を仰ぐ。

長時間、無感動な文字の羅列だけを見つめていた目には、

菫色に染まり始めた天井が、妙に眩しかった。

 

「黄昏」という言葉は、「黄色く昏(くら)くなる」と表記するが、

実際「黄昏」と呼ばれる時間帯は、空というものは紫に、

雲が斜陽に照らされて琥珀に染まる。

源氏物語などでは、

『寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔』

などと、風情あることが書かれていたりするものだ。

夕顔を「黄昏草」と異称することも、叙情深くて良いかもしれない。

 

元々は、「黄昏」とは「黄昏時」の略称で、

夕方のうす暗くなって、「誰(た)そ、彼(か)は」と

誰何(すいか)するところからきているとされる。

人の顔が見分けにくくなった自分を、「誰そ彼」と書いて「たそかれ」、

つまりは「黄昏」と呼ぶのだそうだ。

そして、夕方の薄暗さを「たそがれ」と呼ぶのに対して、

明け方の薄暗さを「かわたれ」と呼ぶ。

 

今では廃れた、多くの日本語。

ふと、その寂寥が胸に影を差したのは、

夕暮れは哀愁を帯びると言われているからだろうか。

 

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【黄昏】

@「たそがれどき」の略。

A比喩的に、物事が終わりに近づき、衰えの見えるころ。

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